思い出せば、六十歳はそれまで見えなかった自分の足もとが見えはじめる年齢なのだろう。
何度かの挫折をあじわい、極限に追いこまれた時、それまで価値があると思っていたことが崩れてしまったり、当たり前だと思っていたことが当たり前でなかったりして、自分の力ではどうにもならないことがあるのだということにはじめて気づいて、人は謙虚になれるのだと思う。
「真理というものは、身近なところにあって、自分の中に見る心が無ければ見えない」と仏教書で読むと、なるほどと思う。
そう言いながら、苦しいときの神頼みでなんとかかんとか言い訳して自分の幸せばかり願ってしまうのだから、決して偉そうなことは言えないが、青い鳥の話のように、幸福がどこかほかにあるのだと思って求めていくと、けっきょく自分の外にあるのではなく、自分の中に、価値を見つけることなのだと、気つく時がくる。
「人生の本当の道は、転ばないことにあるのではなく、転ぶたびに起きあがることにある」
孔子の言葉が身に泌みる。
PHOTO ESSAY
転地療養
先日、写真家ですかと聞かれました。
素人写真ですからと言いながら、お地蔵さまの写真にサインしてプレゼントしてしまいました。
本業の建築の仕事は、設計を始めて建物が完成するまで、作品としての善し悪しの確認に長い時間が必要ですが、写真は撮ってすぐ見られるというスピード感が趣味としてここちいいのです。
運良く時間ができると、下調べもしないで北海道を飛び立ちます。
見慣れた北海道の風景を撮ろうと思っても、どうしても義務感みたいな気分になってしまうのが不思議です。
京都や奈良や信州などの風景が、自分の躰のなかに秘めている何かによって誘発され、新鮮なものとなって飛びこんできます。
転地療養ではないが、私にとって最高の気分転換の時間なのです。
一時期まったくいい写真が撮れなくなりました。
考えてみると良い写真を撮ってやろうと、あれこれ工夫しだしたら肝心のお地蔵さまがほほえんでくれなくなったのです。
きっとその時の自分の気持を写しているんだと後で気ついたことがありました。
ベンチャー
世の中ベンチャー必要論でにぎわい、新聞紙上ばかりでなく国や自治体も、支援だ育成だと号令をかけている。
去年の某新聞の正月の社説にこんな言葉が載ったのを御存知だろうか。
「頑張らない君達が日本を変える」と言うのだ。
「頑張らない新しいタイプの日本人が増えることによって働き過ぎや過度の競争の緩和が期待できるのではないか、頑張らない君が日本を変える」とは、なんとも見識の低い話なのである。
大新聞の社説ですらその程度だもの、日本全体がズルズルと泥沼にはまる結果となった。
楽観的に見ていた結果だとは思わない、人間のあるべき本質を忘れ、そのうぬぼれと錯覚が、懸命に働くということを忘れさせてしまったのだ。
このままだと21世紀には日本は滅びてしまう。
そこでベンチャーとなるのだが、与えられた問題を処理する能力だけを競わせる教育方針で育てられた若者達に、21世紀を担うことのできるリーダーが育っているのだろうか。
誰にも負けない努力をし、今までの意識や制度をぶち破り、蛮勇の心を持って起業家に目ざめ社会の為に、頑張りぬく君達が日本を変えるのだとあえて言いたい。
界川の秋
毎年秋になると、いてもたってもいられなくなって決まって紅葉の写真を撮りに出掛けていた。
最初の頃はどこでもいいと思っていたのに、秋はやっぱり京都だろうと思い込んで、せっせと出掛けて行った。
アマチュアカメラマンの私でもこの季節はそれなりに美しい写真が撮れるのだ。
そこで、紅葉前線を一ヶ月も前から予想して一番いいぐわいの土日の日を決めるのだが、しかし、いつも早いか、遅いかなのだ。
今年は気温が高かったとか、低かったとか、風が強かったとか、言訳ばかりを旅館の仲居さんから聞かされることになる。
口惜しいからこんどこそと、また次の年も出掛けていくのだから、営業に乗せられているみたいで腹がたつ。
それでもものは考えようで、早ければ清涼な秋をたのしみ、遅ければ渋味という侘の世界をたのしむ事ができる。
ところが、三年前に界川に引っ越して来て、朝の散歩をはじめてから、秋の見方が変わった。
藻岩山に通じる山道の木々が毎日ちがう姿をみせてくれる、それも一日として同じことがないのだ。
彼らは陽の角度や温度が変わって、自然と変化をはじめるのではなく、いつも木々の変化が先にあって私は光の変化に気付くのである。
もう全身で季節の移ろいを感じていたら、特別な秋を撮りに行こうという気が起こらなくなった。
この季節、陽が短くなった事に気付き、慌ててしまうことがあるが、ふと自分の年齢の先が確実に短くなっていることにはじめて気付き、慌てている、そんな心境かもしれない。
桃の節句
私は桃の節句という言葉がすきだ。
弥生三月、暖かく晴れがましく、色気すら感じるひびきがある。
田舎から札幌に就職した次の年、私は生まれてはじめて雛まつりに招かれた。
ビール工場に勤めていた私は今で言うパートのおばさん達にけっこう人気があっていつもいろいろめんどうを見てくれた。
はじめての一人暮らしで、洗濯もままならない悲惨な生活をしていたから、パジャマみたいなジャージ姿で出かけていった。おしえられた住所へ、約束より三十分以上も早くついたが、いつも見慣れているおばさんという気楽な気持ちでチャイムを押した。
ガラスの向こうにあざやかなピンク色がうごいた。美しい着物姿の女性がていねいに頭を下げ迎えてくれた。
私は自分のジャージ姿に困惑した。
雛まつりなどお祝いしたことのなかった田舎者の私は、それが伝統のしきたりにのっとった行事なのだとはじめてわかった。
美しい二人の大学生のむすめさんと、京都育ちというおばさんの心のこもった持てなし、雛人形や飾りつけの夢のような一日をすごした私は、桃の節句の季節になると、あの玄関のガラスごしの幻想的な桃色のけしきとともに、一目惚れした思いをうちあけずに過ぎてしまった青春の日々をまた思い出すことだろう。
不安分子
また誕生日が来た。
六十をすぎると、一日一日大切に生きなければならないなどという脅迫観念にとらわれたりする。
悪い癖で、若いころから自分のなかには、いつも不安分子があって、うまくいった時でも失敗した時のことで不安になり幸福になるとまた心配する。時間だって遅れるといけないと心配し、それはそれは神経質な人間だった。
ある時なにかの本で、男は安定した母親の胎内から出て誕生した瞬間から、不安を抱えて生きていく不安願望があるんだ。というのを読んでえらく納得したとたんに、自分のなかに不安を抱えることで、精神が安定するという矛盾した本心に気づいたりして、すっかり安定感をとりもどしたりした。
人生は自分が一番弱いと思っている部分が実は一番強かったりして、歌うことがだめだった人が歌手で成功したり、数学がきらいな人が、数学者になったりする。
私なんか、人生に不安なんかなんにも無くなったし、時間をうまく使いこなすようになった。
しかし修業でそうなったのかどうか……。ほんとうは、どうも記憶力がすっかり悪くなって、きのう悩んだ事が次の日にはもうすっかり忘れてしまっている、なんてこともあるのだが。
審美眼
「小狸が一匹散歩に出て帰りません、迷いこんだ時はかわいがって下さい、狸の家族」
先日新聞のコラム欄でこのような書き出しの記事を読んだ。
趣味で集めた信楽焼の狸の置物が玄関先から無くなったのだというのだ。
家の壁に狸の家族の貼り紙を出した。二週間後、玄関にひょっこりと帰って来たそうだ。そして「心配かけてごめんね、長い旅に出ていました、みんなぽくのことをかわいがってくれました、もうどこにも行かないよ、ただいま。」というメッセージを携えていたというのだが、なんとも心暖まる話である。この狸の持ち主は、さぞかし心農かな美しい心の持ち主であろうと想像がついた。
私は建築で多くの人と会うが、信楽や備前などの素朴な焼物の趣がわかる趣味の高い人は、心豊かであることはもちろん、人問のできた人の多いことに気づくのである。
そしてその趣を見抜く審美眼の高さと、心の高さはイコールではないかと思うほどである。その高さは人間を見る目にも通じていて、人間を大切にする心にも通じているのだと思う。「人間というものができていなくて、建築の作品だけが立派に出来るということは、ものの道理が許さないから、是非とも人問から造ってかからなければならないだろうなあ」駆け出しの頃、師と仰いでいた、西岡常一氏の言葉が響いてくる。
鬼門
北と東の中心から南と西の中心に向かって鬼門と呼ばれる方角がある。
住宅の設計をしていると、玄関やトイレがどうしても鬼門の方向にぶつかってしまい、これを動かすと家全体のデザインが崩れてしまって、悩みに悩んでしまうことがある。
若い頃、どうしても方角を第一優先したいという建て主さんと一緒に、よく当たるという占い師の所へ連れていかれた。図面を見るなり、ここが悪い、ここも悪いと言い出した。
見るからに貧相で、マイナス志向そうな雰囲気の占い師は、設計図を手直ししましょうと言い出した。ついには階段を中央にして田の字の家になり、南面の一番日当りのいいベランダの窓は、3尺以上腰壁を付けたほうがお金がたまると言うのだ。そんなに当たるものなら、少しはましな家に住んだらどうだろうと思いながら、気の進まない仕事となった。
昨年、東京である芸能人の家を建てた。
設計が完成するころ、そこに台湾道教の風水の先生が登場したのだ。若いころの失敗を繰り返さまいと、風水に対する知識も十分だった私は、その持論をとうとうと述べた。
本当の風水は大地にある気を探る中国四千年の学問なのだ。日本の風水では鬼門という方向だけを問題にするが、本当の風水の基本はあらゆる方向の「気」の動きを読むことから始まり、気の流れをつくり、運気を高めることに集中する。
東京の建築が完成するころ、道教の先生と意気投合した私に、免許皆伝のお墨付きを渡すということになったのである。
素晴らしい気の流れの住宅が完成したことは言うまでもない。
和の意匠
人間の五感にかかわる記憶のうち、戦後の日本人が忘却してきたものは侘びの感覚ではなかろうか。
いま、プラスチックやビニールなどの新建材が暮らしの中を包み、素材感を無くした無機質な空間が氾濫しています。
自然や天然素材を生活の中に取り込む伝統技法は、経済主義に走った消費社会の中で捨てられているのです。
私たちが慣れ親しんだ環境は、実は人間の習慣的美意識を創り上げ、そこで培われた美意識は、その人の人生全体を支配するほど強い力を持っているのだと、欧米の建築学者たちは指摘しています。
日本の懐かしい心象風景や日本人の持つ繊細な素材の表現、その感覚やこころがどこかに忘れられています。
床の間を飾る草花、土壁の風合い、障子の温かい光色。目に触れる全てがゆらぎ、記憶の中の五感に刺激を与えてくれる和の意匠。その場に身を置くことで、忘れかけていた心を取り戻すことができるとしたら、、、。
私は日本人の本来持っていた侘寂の空間を造ることで、美意識を取り戻し審美眼を高めることのできる本物の建築を創り続けたいと思うのです。
夏の日
十代の季節を振りかえるとき、私はいつも夏の中にいる。
じりじりと肌を突き刺す光と、盆地の独特の蒸し暑さ、父の命日に汗だくになりながら二里の道を墓所にむかってひたすら歩いている…。
そんな夏の思い出が夏以外の季節を封じ込めているのはなぜなのだろうか。
父のいない農家の長男として育った私は、小学校に上がると一家の主としての自覚があった。
五人の姉と弟、母は幼い私にすがるような期待をかけた。
「僕は日本一の百姓になるんだ。」いつしか母の期待に応えることが、人生のすべてと感じていた。
小学校三年生になると、夏休みには一人で馬に鞍を付けて畑に出た。
馬小屋の桟木にのぼり、馬の腹の下をくぐって鞍を付けていたが、ある日
道産子のアオは小さな私が煩わしかったのだろう、胸をえぐるほど噛みついた。生死をさまよいやっと気が付くと、そこに母の泣き顔があった…。
日陰の無い畑の野良仕事は、子供にとって地獄の場所だった。じりじりと刺す太陽、それだけが鮮明に残る。
今年も夏の一日、いつものように父の墓所へ行った。
いま母と二人で静かに眠る墓石に、あの頃と同じつる草が絡み、古い土の
においが五感のすべてにインプットされていたものを呼び戻す。
ぼんやりとだが、歯を食いしばって生きていた時代、その一生懸命さがいまは懐かしい。
飛叡山
自宅のある札幌の界川から藻岩山の山頂につづく山道の中ほどに美しい峰があってそこに座禅所を作った。
毎朝、6時には作務衣を着て修行僧の様に山道を登る。
ちょうど親鸞が参籠をしたように、それにあやかって
一字違いの飛叡山と名付けた。
一番急な登りは30度ほどもあって、上から見ると絶壁に見える。
そんな坂道を万歩計を付けて登るのだが、ちょうど4000歩ほどで座禅所に付く。
朝の風と淡い光、むせかえるような草木の呼吸の中に一人座していると自然と調和し精神が浄化してくるような思いになる。
最後に中村天風の真理瞑想行を大声で読み上げ、同じ道を下って一日が始まるのだ。
最初のころは、雨の日も風の日も、頑張って夢中で登った。
100日はあっという間に過ぎた。しかし、1000日を過ぎた頃から苦痛になり始め、なんと無駄なことをしているのだろうと、自分自身を疑うようになった。それでも歯を食いしばって登り続けた。
同じことを繰り返すことのむずかしさ、そんな時金沢大乗寺松野宗純老師の説教を聞く機会があった。
老師は「あれこれ考えるから疑うのだ。水の中にいる魚が、これが水であると考えてはいない。そしてこれが水であると信じて泳いでいるようでは、これもまた本当ではない。信じているということは疑いを持っていることと同義なのだ。たとえば、本当の自分の子供なら、自分の子供だと信じることはないだろう。信じるという気持の中に疑念心が隠れている。悟りの行為とは、信じる心を超えたところにあるのだ。」
座忘し、瞑想行を読み、自然と向き合う。木々の枝や草が毎日違う姿を見せ、花を咲かせてくれる山道を今日もまた登った。
社是
「人を幸せにする人が幸せになる。」
おこがましいが、私が主宰している会社の社是である。この言葉を使うのに二十年かかった。
サラリーマン時代、人間はどんな生き方をすればいいのだろうかと悩み苦しみ、自分の生きる道を懸命に捜した時期、そして三十歳近くになって建築に出会い、その世界に飛び込んでいったものだが、いまだに人間にとって真実の道とは何だろうかと、それを追い求めている様な気がする。
さまざまな人生の局面を目にし、「この道さえ歩いて行けば絶対に間違いのない道とはどんなものか」と問われて、「つまづいたり転んだりするほうが自然なんだ、何もしなければ、転んだり倒れたりなどしないんだから。」といつも会社のみんなに言っているのですが、失敗を自分のこととしなければ、何度転んでも失敗から学ぶことなどできないものです。
朝さわやかに目覚め、おいしい朝食を摂り、ああ幸せだなあと感じながら元気に会社に出る、けれども会社ではなかなか仕事がうまくいかず、イライラがつのり夕方にはすっかり落ち込んで家路に着いたりします。
幸せとか不幸とかはいつも表裏で、それに打ち勝つ気持(こころ)と、その中に喜びを感じる心のあり様、失敗は自分のこととし、幸せは人のためにする、その信念が人生を創り事業を創る、そんな思いを社是にしたものなのです。
興味心
いまにも雨が降りだしそうな、どんよりした空の下、朝靄の中に弱い光が差し始めていた。
目が覚めると同時に、私はカメラを持って階段を上がった。
ここは奈良吉野、前日泊まった旅館の屋根の飾瓦が妙に気になっていたのだ。
創業70年というから、古いことは古いが、良く手入れされていて、庭の方では 落ち葉を焼く匂いがしていた。
いちばん上の避難階段に出ると、そこから屋根の上になんとか沿って出られることがわかった。
重いハッセルのカメラをたすきに担いで、音をたてない様に忍び足で登っていった。
屋根のてっぺんに出ると、瓦の隙間に生えた苔や雑草が、いっそう年月を感じさせ、思いもよらぬ芸術作品との出会いとなった。
私は建築が本業だから、建築の材料とかディテールとかが気になると、どうしても手で触れて確かめたりしないと、気がすまないところが若い頃からあった。そして、そういう興味が、物を見る審美眼を磨き、本物の建築を造り出すことの基本になっていくのだと思う。
しかし今、建築業界はその興味心を無くしてしまったように見える。庇の無い四角いサイディング貼りの薄っぺらい住宅群を作りだし、趣の無い町並みを大量に生み出している。
工業化され、合理化された商品住宅を追い求めるあまり、日本人の心の中に残っているはずの侘寂の感覚までもう捨て去ってしまうのだろうか。
一期一会
私は写真が好きなのか、カメラが好きなのかと考えてしまうことがある。
四十年ほど前、はじめての給料でオリンパスハーフカメラの中古をやっと手に入れた。食べることもままならないのに家に仕送りをしていたから、十回月賦で買った。
毎日、擦り減るほど磨きこんでいた。小さいけれど、歯切れ良くシャッターが切れるのがうれしかった。
あれから何台かのカメラを手にしたけれど、やっぱり機械的な感触の物のほうが気持ちいい。今では一週間もカメラをいじらないと、シャッターを押したい衝動にかられて歩きまわるほどである。
プロとは違うから作為的なことは出来ないが、写真は機械が写すんだから誰が撮っても同じだ、と思っていた。しかし長く撮っているあいだに、そうではない事に気付いた。
一期一会というか、はじめての出会いで無心に撮ったもののほうが、何度か出直して撮ったものより一番いいと、不思議と気付くのである。
このごろは、雰囲気とか、まわりの空気みたいなものを撮りたいと思う。
旅に出ると、初体験のいろいろなものに会う。はじめての場所、はじめての季節、はじめての人、そして私の好きな空間に出会うと舞い上がってしまい、真っ白になってシャッターを押す。
写真の一過性の美学というものがそうさせるのか。未熟な心がそうさせるのか。
不安願望
また年が行く
この歳になると、一日一日大切に生きなければならないなどという脅迫観念にとらわれる。
悪い癖で、若い頃から自分の中には、いつも不安分子があって、うまくいった時でも失敗した時のことを思い不安になったり、時間にだって遅れるといけないと心配し、それはそれは神経質な人間だった。
あるとき何かの本で、男子は安定した母親の胎内から出て誕生した瞬間から、不安を抱えて生きていく不安願望があるんだ。というのを読んでえらく納得したとたんに、自分の中に不安を抱えることで、神経が安定するという矛盾した本心に気づき、すっかり安定感を取り戻したりした。
人間は本当は自分が一番弱いと思っている部分が実は一番強くなったりして、歌うことがだめだった人が歌手で成功したとか、数学嫌いの人が数学者になったりする。
私なんか人前で話をすることが大の苦手だったのに、年50回以上も講演などで飛び回っているし、いまは人生に不安など無くなった。
しかし修行でそうなったのではなく、どうも本当は記憶力がすっかり悪くなって、きのう悩んだことを次の日にはもうすっかり忘れてしまっている、なんてことが多いだけなのだが、、。
まっすぐな道
忘れられない人がいる
書の野人と呼ばれている新井狼子(あらいろうし)先生との出会いだ。
数年前私が主宰していたギャラリーで狼子先生の書画展を企画した時、先生は埼玉から駆けつけてくれたのだった。
七十をとうに過ぎているのだろうが、目がきらきらしていて、青年のようなという形容がぴったりな人とそう思った。
高名な書道家でありながら、書家とか先生とか呼ばれることを恥ずかしがったり、自分の中の欲や得を捨てきる生き方を貫きながらも、自分を得体の知れない間違いだらけのぶざまな人間と言い切り「不器用な手が本物をつくるんですよ」と私を励ましてくれた。
「まことのこころというものは、損得ぬきでよろこびあえる世界です。なんにも無くていいんです。ほんとうによかったねといえる心のふれあいがあれば、これ以上の財産はないのではないでしょうか」
書画展での数々の作品は優しい言葉なのに、激しい修練を重ねる修行僧のような気迫に満ちたものだった。
「まっすぐな道でさみしい」
いま仕事場に掛けられている先生の書を見ていると、やさしい道を選んで通ろうとする自分に、「お前そんなんでいいんかい、もっと本物になれ」と喝破する狼子先生の姿が浮かんでくるのです。
秋日
秋ナスは嫁に喰わすな。
肌寒い風が漂うようになると、こんな言葉をいつも思い出す。
父のいない農家に育った私は、姉五人と弟そして母の八人とで肩を寄せ合うように生きてきた。
家族全員が朝早くから野良に出て働いていた。
中学生になると、朝飯の支度は私の役目で、毎日野菜の油炒めだったが、なかでもナスの料理が得意だった。そしてナスが出ると決まって母は「秋ナスは嫁に喰わすなといって姑からいじめられた」といつも話していたから、秋風が吹くころになると、ふとそのことを思い出すのである。
秋ナスは実がしまっておいしいから、食べ過ぎて身体を冷やさないようにと嫁を気づかったことばなのだが…。
今年、吾が家の猫の額ほどの広さの庭に、農家の仕事などまったく知らない女房がナスの苗を2本植えた。
大切にしている坪庭の、それもまん中にである。
ナスは花を愛でるものではないのにと、半分あきれていたのだが、毎日手入れをしていたらしく、どんどん大きくなった。それも周りのツツジの木より大きくなって、幹などは木の様なのだ。
それからというもの、毎日毎日、二人では食べきれないほど実が成って、もう見るのもいやになるほど食べた。
女房は友人に自慢するものだから見物に来る人まででてきた。
農家をやっていたと自慢ばかりで、野菜など作って見せたこともない私は、もうすっかり形なしだ。
やっぱり愛情が一番よ、と女房は言うけれど、鶏糞20kgも入れればそうなるよ、と水を差すようなことは言わないようにしようと思いながら、今日も秋ナスを食べた。
ゆらぎ効果
いつも行く近くのお菓子屋には二千円の和菓子があってそれがプラスチックに入っている。
木の箱に入れてもらうと二千四百円になるが、人様にはそれをお持ちすることになる。中味がまったく同じであっても木肌の魅力が別のものに見せてしまうのだ。
日本人は長い間、木に対して深い愛着を感じて生活してきた。
しかしこのごろ世の中どうもあやしくなった。
高級マンションと銘うったほとんどがプラスチックに印刷した木目で仕上げられているし、戸建の住宅でさえ手に触れる仕上げ材の70パーセントは、まがい物でできている。
そんな生活空間の中では本物を、動物的臭覚や視覚で理解できない時代がくるのではないか。
あるカラーセラピーの研究家が現代の住宅空間には、ゆらぎ効果が足りないと言った。自然な木目の流れや、和紙の光のゆらぎ、そういう人間の五感にかかわる何かが足りないというのだ。
脳の中にある古い皮質の原始的な欲求を見落として、本当の愛着のある空間などできるはずがない。子供達の「きれる」といういらだちも、そんな欲求からきているのではあるまいか。工業製品の発達を進歩だと信じこんできた私達は、しかし果たしてそうだろうかと、いま環境的にも立ち止まる時がきたのだと思う。
花の育て方
私事で恐縮だが、爺さんは三十六、父は四十七、その弟は五十二、その長男は四十五歳でみんな逝った。とにかく男が早死にする。
そんな血筋なので、私もそう長く生きられないだろうと思って生きてきた。
父との思い出は四歳の時だったからまったく無いが、大人になるまで心にひっかかってきたことがある。
それは成長する時、父親への反発とか、父との競争心とかが、男には必要だと言われたことだ。
母子家庭であることで就職にも影響した時代、大人から聞かされたそんな言葉が胸につかえていたのだった。
母にはわがままをいいながらでも、それでいてそむけない強さがあった。
いい加減さは許されず、母のその強さは父親のいないことへのハンディを乗りこえさせようという誇りであったように思う。
そんな辛抱のある強さが、父親には是非とも必要なのだろう。
現代は、家庭でも職場でも、その強さが無くなった。
ほしいものがすぐ手に入る時代、花がほしいと言えばすぐに切り花をあたえてしまう。
せめて花がほしいと言えば、花の育て方を教えるそんな忍耐力のある父親であり、職場の上司であればと願いたい。
津和野の狸
津和野で骨董屋巡りをしていたとき、店の隅にある信楽の狸が目に止まった。
四十年ぐらい前のものだと店主が話していたが、ほこりをかぶってすっかり忘れられたように置かれていた。
三十代の頃、古美術を愛好していた木材屋の知人の店先には玄関から座敷まで、無数の書や、骨董品がころがっていて、それを見るのがたのしみだった。
そういう雰囲気に、はじめて出会った私は目をかがやかせて古備前や信楽の壺に魅かれていった。
「骨董の収集は遊びごころでやるもんで、金にまかしてやるもんじゃないんだ。」
いつもそんなことを話しながら目をほそめて解説してくれた。
骨董には、人の心を洗い清める力がある。新しいものほど良いという価値観を知らず知らずのうちに植えつけられてきた時代。もううんざりしてしまって、古さとか年月とかいうものが、どれだけ財産か。
幸福感とか、充足感というものが、そんなところに生まれてくるのではあるまいかと、思うようになった。
旅に出る楽しみのひとつに、骨董屋巡りがかかせなくなったが、遊びごころを磨いているうちに、いいものがピカッと光ってわかるようになった。
あんまり愛らしいので遊びごころで連れて帰った津和野の狸は、家を訪れてくれる人達にお元気ですかと声をかけ、おかえりなさいと迎えてくれる我が家の一員におさまっている。
ノブナガ
わが輩は猫である、名はまだ無い。
きのうも玄関先のゲートの上で一日を過ごした。ノラになって長いが、一月の大雪の時不覚にも縄張り争いに敗れ、この家の車庫に身を隠しているところを見つけられた。
蹴飛ばされるかと思ったが、何日も飯を食っていなかったから逃げ出す力も出なかった。
ところが何を思ったのか、この家の奥方がカリカリの猫飯と水を与えれてくれた。
地獄に仏とはこのことかと気を許したのがいけなかった。気がついたら病院とやらに入れられ、注射をされ、ついでに大切な玉玉まで取られてしまった。
主人の家にはミーシャーという洋風のすましたメス猫がいて、めっぽう気が強く気にくわない。昔なら一撃で押さえつけただろうが、どうしたわけか、下半身に力が入らないのだ。
わが輩のシッポは蝦夷一番だと主人はそれをえらく気に入ってくれた。
主人の尊敬している昔の野武士のチョンマゲみたいだと言って、ノブナガ、ノブナガと呼ばれるが返事をしてやったことはない。
この家には狛犬の置物がたくさんあって、何時しかわが輩も宝の玉を持たされて、剥製にされるのではないかと心配になるが、一宿一飯の義理だけは努めたいと、きょうもゲートの上で主人の帰りを待ち侘びているのである。
猫にだってこころのよりどころが必要なんだ。
春のにおい
ふきのとうが芽を出し、空気がやわらかい風を運んでくるころになると、なにかを無性に始めたくなる。
この季節、農家の家々では、一斉に馬糞や敷わらの堆肥を馬そりに積んで、たんぼに運び出す作業が始まった。
日の出る前の硬雪は、馬の蹄さへ沈まないほどカチカチになり、ピーンと張った朝の空気に思わず身が引きしまった。
馬そりに積んだ堆肥からはモウモウと湯気が上がり、長靴を通してその暖かさを感じることができた。母はゆでた大豆をわらに包んでその熱で納豆を作ってくれたが、ビニールできっちりと包んでおかないと食べるどころではなかった。
日が昇りはじめると一時間ぐらいで硬雪が緩み、その日の作業は終りとなるが、すがすがしい春の景色の子供の頃の思い出である。
そんな春のにおいを今はすっかり忘れてしまった。
世の中がすっかり変わってしまい、ありとあらゆるものがおかしくなった。
いや 、やっとほんものの時代をむかえたのかもしれない。
「どんなに時代が変ろうと、
どんなに世界が移ろうと、
人の心は変らない、
よろこびもかなしみも、
いつもみんなもっている。
だけどだけどこれだけは言える、
人生とはいいものだ、いいものだ。」
そのころ森繁久弥が歌っていたテレビの連続ドラマの主題歌を思い出す。
たしかこんな歌詞だったと思うのだが。
茶道の心得
「お点前ちょうだいいたします」その職人さんは茶碗を手に取ると左手にのせ、一、二度と廻してから、ゆっくりと口に運んだ。
こんどは親指と人差指で茶碗の口をつまんで拭くと、懐紙で清めた。そして両ひじをひざの上に付いたかたちで茶碗を手に取って眺めると「唐津ですね」とたずねた。
その様子をうつむきながら、左目で追っていた私は、穴があったら入りたいほど恥ずかしい思いで赤くなった…。
建築をやっていると、どんな物でも作れるような顔をしていなければならないところがある。二十年ほど前、茶室の建築の依頼を受けた。八畳広間と、三畳小間、それに路地と前室を持った本格的なものだった。
使い勝手は主である先生の考え方があったが、躙り口の寸法や、その納まり具合といった詳細はなにひとつわかっていなかった。しかし出来ると言った以上、何度も京都へ内緒で寸法を取りに出掛けていった。
おかげで設計料のほとんどは旅費に消えたが、やっとの思いで完成した茶室は満足のいく作品となった。
数日後、打ち合わせの為たずねていった私を、先生は一服どうぞ、と誘ってくれたのである。
たまたま襖の手直しに来ていた職人さんも一緒にということになった。
お楽にどうぞ、と言われてあぐらをかいた。先に出されるまま、味噌汁でも飲むような手つきでおっかなびっくり飲んだ。
次にきのうまで私の我がままを無理やり押しつけていた下請けの職人さんに出されたのだった…。
茶のいただき方さへ知らない、知ったかぶりの設計者と、茶道の心得を身につけた謙虚な職人さん。その日の出来事が今でもはっきりと思い出されて、そのときから物づくりに向う心の姿勢が変わったように思う。
タンチョウ
正月の新聞に阿寒郡鶴居村の初日の出とタンチョウの姿がカラー写真入りで紹介されていた。
下雪裡の川面を朝日が金びょうぶのように染めた写真だった。
数年前、タンチョウ見ずして死ぬなと、D先生から誘われて出掛けて行ったことがある。
雪裡川にかかる音羽橋には、この季節毎朝何十人もの写真愛好家が、五百ミリ以上の望遠レンズを構えて連なる。
しかしシャッターチャンスは夜明け前のほんの数十分、朝日が山の向こうに来て、顔を出す前、東の山裾を赤く染める一瞬、川面にその淡い光が反射してタンチョウが逆光で見える。
気温は低ければ低い程よく、川面に水蒸気が湯気となって、けあらし現象をおこす。
その時、幻想的でこの世のものとは思えない絵姿になる。
はじめてこの橋に立った時、そんなことを居合わせた愛好家達から得意げに説明された。
お地蔵さんや古くて懐かしい写真ばかり撮っている私にとって、はじめての動く被写体だった。
ありったけの写真機材を担いできたのに、その日は厚い雲におおわれて太陽がでなかった。
こんどこそと、翌朝の4時から用意をして備えていたのにけっきょく雪に遮られた。
拷問のような寒さに悲鳴を上げ、もう来るものかと思っていたのに、数日たつとこの世のものとは思えない姿をまた見に行こうと思った。
「タンチョウを見ずして死ぬべきでない」
華麗なあの飛ぶ姿を一度でも見た人なら、きっとそう思うにちがいないはずだ。
チャンス
人生には確かにいくつかのチャンスがある。それを生かせるかどうかだ。
ところがそのチャンスというやつが好機といっしょに来るとはかぎらないのだ。
これが実に難しい。
振り返ってみると、あれが人生の中でチャンスだったなあと思えるのは、ピンチの時に苦しみながら手にしたものだと、後から気付くのであって、その時々、これがチャンスだと考えて、好機だけを狙っていても、人生そううまくいくとは限らないものだと思う。
だから苦しい中にあっても、あきらめない努力、そしてそんな中にすら楽しみをみつける生き方をしていれば、だれにだってチャンスが巡ってくるはずなのだ。
しかし現代人は、その苦労に対する忍耐力を失ってしまったのだろう。すべてのことが性急に簡単に損か得かで解決しようとされる。
先日世間を騒がせた幼稚園児殺害事件、親どうしの付き合いに耐えられないと言って、幼児を殺してしまった。子に生き方を教えるべき母親までこうだ。
ところが、報道番組に出た同年配の女性達は、加害者の気持ちもわかると言って同情しているではないか。
なんとも情けない。人間が生きる目的はなにか、その部分を忘れてしまっている。
人間は見栄や欲望だけでは、生きている価値など無い。
来る年は、人間を磨いて懸命に生きる。そんなほんとうの生き方が求められ、評価される世の中になればと願っているのだが・・・・・・。
因縁
正月にいつも仕事をお願いしている庭屋さんからいい話を聞いた。
木はぐんぐん伸びなければならない。
それを囲ってしまって伸びなくしたら、木は困ってしまう。だから伸びられないというのが「困」という字になったんだと言うのだ。
木でも人でも頭を押さえられて伸びを止められてしまうと、困ってしまいその苦しさを困苦というんだなあ。
なるほどとえらく納得して、後日ある酒の席で庭屋さんから仕入れた、その教養をお披露目した。
ところがその席に、えらくほんとうの教養のある人がいて、それなら人を囲いに入れたら囚人の「囚」の字になるね、と教えられた。そして大という字は、人間が手と足を広げて大きくなるという字だ。その大を囲いに入れて、その囲いの中で大きくなっていられる環境、そういう因縁によって人が生かされている、それが「因」という字だというのだ。そしてだれのおかげで自分が大きくなっていられるだろう、という感謝の思い、それが「恩」なのだと。
漢字ってすごいなあ、哲学そのものなんだなあと、この歳になって納得した。
花桃
台風の進路が気になって朝早く目が覚めた。
朝から大荒れになるはずだった予報が外れたのだろうか、 東の空の早い雲の流れに、少し明るい隙間が見える。
風が強かったり、雨がつづくと建築の現場が気にかかって、 いつも早く目が覚める。
今日はだいじょうぶだった。ホッと安心して庭に目をやると、今年はいつもの 年よりたくさんの実を付けていたか花桃が庭一面に落ちているのに気づいた。
十七年前、我が家の新築祝いにと、いただいた苗木が三メートルぐらいに 成長したものだ。 一度邪魔になるから切ろうかと話をしていたら、それが聞こえたのか、 その年からいっぱい実をつけるようになった。
朝の光に照らされて美しく白く輝いて見える。 カメラを持ち出してシャッターを切っていると、娘がヒョッコリと顔を出した。 「きれいだろう。」と言うと、どこが、と一笑された。 この風雅心が分かるにはまだまだ年月がかかるだろうと思いながら、 しかしこれからますます忙しい現代人に、そんなゆとりがもてるだろうかと思った。
「世界は不思議に満ちた精密機械の仕事場。
あなたの足は未見の美をふまずには歩けません
たった一度何かを新しく見てください
あなたの心に美がのりうつると
あなたの眼は裏空間の外をも見ます
どんな切なくつらく悲しい日にも
この美はあなたの味方になります」
風雅を愛した高村光太郎の目には、世界がもっと美しく映っていたことだろう。
一生青春
「青春とは、ある時期を言うのではなく、心の様相を言うのだ・・・・・・」
何のために生きていくのか、多感な二十代に、私は自分の描く理想の生き方を捜し求めていた。
松下幸之助氏を師と仰いで、全ての著書を読みあさった。
大阪まで師を尋ねたとき、会社のロビーの吹き抜けに、高さ二十メートルはあろうか、青銅の大きな板に刻み込まれた、青春とはの一節、その荘厳な大きさに度肝をぬかれた。
三十近くなって、やっと建築という世界と出会い、飛び込んでいった。
建築をやるなら木を知りなさい、茶室建築を多く手がけていた藤田辰雄社長に教えられ、弟子入りした私は、木の魅力と、その偉大さと、そしてそこに秘められた木の本質を学んだ。
木は切られてなお、その倍数の命を生きる。
木の魅力は美しい年輪とともに、何百年も生きぬこうとする、そのエネルギーにある。
現代人はその意味と、先人の創り上げてきた、木への思いを忘れかけている。
私は何百年もたった伽藍を見る時、その破風の木目が、今なお鮮やかに色づくその鼓動を感じることができる。
そして一生青春の詩のように、自分の可能性を信じ、使命を全うするようにと、語りかけてくる思いを受けとることができるのである。
五月病
五月病というのがある。
医者ではないからホルモンの関係かどうかはわからないが、四月に新しい出発をした緊張感が五月になってプツンと切れてしまうことなのだろう。
そういえば、家を新築して、一ヶ月程経ったころ、五月病によく似た症状になる人がいる。
家を造るという、それまで積み上げて来た達成感が満足感に変わるなら、
それは心地よいまどろみに似た時間だろう。
しかしこんなはずではなかったという倦怠感となると問題は複雑になる。
友人を持つのなら、弁護士と医者と建築家と彼方の国では言うそうだが、
日本では建築に携わる人達の意識レベルが低すぎる。
大はゼネコンの談合から、小は住宅メーカーの性能のいい加減さ、私の担当している建築雑誌のハウスドクターのコーナーで、100年住宅の嘘、長期保証のまやかし、というのを書いたら脅迫状が来た。
建築家と言われる人達は、そろそろ総論をやめて、はっきりと物を言わなければ信用などされなくなるだろう。
そんなことなら、図面書きのコンピューターに取って変わられる日も近いのかもしれない。
花は桜木
ある花の写真家に言わせると、桜の花を写すのが一番むずかしいそうである。
ましてや趣味で写す私にはうまく撮れたためしがない。
私の育った田舎の家の敷地には、金比羅があって境内には山桜の木がたくさんあった。
春になると一斉に花を付け、一瞬に散っていった。
いま思うとなんと贅沢なことだろうと思うのだが、子供の頃にはその良さがわからなかった。
年を重ね、四十代に入ったころから私の心の中で桜に対する思いが強くなりはじめた。
時間をみつけては、土日の一泊を使って桜の名所へ出掛けるようになったが、しかしいつだって遅いか、早すぎるかで一番美しいときに出会うのは難しいのである。
京都で桜守をしている人の話だと、花が一番美しい表情を見せてくれるのは、ほんの数時間だと言っていたことがあるが、それほどはかない一瞬の輝きと、潔さは魔性にも似たあやしい美しさを秘めている様に見える。
花は桜木、と日本人の気質によく例えられるが、爛漫と咲く花びらが、風が吹き、冷たい雨に吹雪となって一斉に散る様を、あらゆるものは空である、という仏教の教えにだぶらせて言っているのであろう。
そしてそれを感じられるようになると、若いころには見えなかった、さくらいろの風情に心惹かれるようになる。
その心の底を写すことができなければ、桜の花をうまく撮ることなどできないのかもしれない。
千両と万両
正月飾りでかかせないのが、センリョウだろう。
赤いルビーのような実と葉の形が正月祝いの場にピタリとはまる。
今年は同じ赤ならナナカマドの枝と思い生けてみた。
紅葉をカエデと競い、そして雪の白さにひときわ鮮やかに華やかさを添えるナナカマドの実なのに、その風情がどうしても正月飾りにはしっくりこないのだ。
はてなぜだろうと頭をひねった。
名前のせいねと妻が言ったが、たしかに千両とは縁起がいい、そんな先入観が見方まで変えてしまうということはよくあることかもしれない。
そう言えば、正月にはよく使うナンテンも「難を転ずる」という語呂合わせがあるし、万両もめでたい正月花材だ。
百両もあると聞いたがまだ見たことはない。
千両は葉の上に実があるが、万両は葉の下に実を付ける。植物も人間も、財産ができると人に見せたくなるらしいから、千両たまった木はこれ見よがしに葉の上に実を付ける。
もっとたまって万両ともなると、盗まれるといけないから葉の下に隠すように実を付けるというのだ。両者の見分け方をそんなふうに教えてもらった。
百両は財産が少ないのを恥ずかしがって、見られないように実を付けるというのだが、そう考えるとナナカマドは、実が重なり合って多すぎて、やがて息苦しくなり、日本の正月の奥ゆかしさにかけるなあと思いあたった。
千両と万両②
先月の号で千両万両のことを書いたら、おもしろいと言ってくれる人が何人かいて、すっかり気を良くしてしまった。
私の家の庭にも三年前に富山の氷見の父親の実家からもらってきた万両があって、まったく実を付けないのだが大切に育てている。
庭屋さんに北海道では育たないよ、と言われたが、形見のようなものだから、どうしてもあの赤い実を付けさせようとひそかに大切にしているのだ。
そんなことを考えていたら、いままで見たことがなかった百両を見に京都へ行こうと思いたった。思いたったら行動してしまうのが悪い癖なのだ。
見慣れた光景、何十度となく訪れただろうこの街には、躯の奥に根でも張っているような心を揺さぶる何かを感じ優しさ、妖しさや色気が、いい女の条件なら、雨あがりのしっとり湿った京都はそんな魅力を秘めている様に思う。
百両見たさに京都まで来たと、旅館のおかみに言ったら「物好きなこと」と笑われたが、十両もあると教えてもらった。
けっきょく三日間降りつづいた雨のおかげで外にカメラを持ち出すことができなかったが、旅館の障子ごしにあった万両の枝が唯一の記念写真となった。
犬の格
いつもの朝の散歩に道連れができた。
上の娘のワンルームマンションで飼っていたビーグルが、思ったより大きくなってしまって部屋に置けなくなったと言って連れてきたのだ。
猫党の私は知らんふりを決め込んでいたので、下の娘と女房がかわり番に散歩に行ったり下の世話をしていた。
いつから犬が嫌いになったのかは定かではないが、見るに見かねて、先日ワン公を朝の散歩に連れ出した。
うれしいのか、浮ついているのか、チョロチョロと実によく動き廻るやつで、言うことをまったくきかないのだ。
朝早く寝巻き同然の姿なので、途中すれ違う散歩の人達に目を合わさない様にしたいのに、チョロチョロとなついて行くものだから、(いつも前だけ向いて黙々と歩いているのに)すみませんと謝ってばかり、ついでにウンチまでやってしまい、ああもういいと思った。
すれ違った顔のスマートな白い長い毛の大きな犬などは、うちのワンがチョロチョロ近づいて行くのに、お座りして通りすぎるのを待って微動だにしない。たぶんうちのワン公とは格が違うと思っているみたいなのだ。
こうなったら私も負けず嫌いだから、しつけをしてやろうと毎日連れ出す様になってしまった。
三つ子の魂と言うが、犬の場合何歳までなのか、今日もほとんど言う事をきかないワンと散歩をした。出来の悪い子ほどかわいいともいうなあと、しみじみ思いながら。
才能
才能がある人間がいる。
建築の設計などをやっているとさも才能の固まりみたいな仕事をしているように見えるが、実は才能三割、あとの七割は持ち味と考えている。
才能にはいろいろな形があって、点数などでは決められないがハンディと本人が思いこんでいる部分が持ち味だったりする。学校でデザインなどを教えていた時、「私には才能がありますか」とよく聞かれた。
学生達は周りの仲間の作品を見ているうちに、自信を無くしてしまうことはよくあることで、学校時代に課題がそつなくできる人が時として、持ち味が出せる仕事人にならない場合が多いものだ。本当に才能に恵まれたければ、自分がおもしろいものが一番で、どう頑張ってみても興味がわかず、とことんやってみて、ほんとうのおもしろさがわからなかったら、やはり才能がないと考えてみたほうがよいのだろう。けっきょく才能があるからすきなのか、すきだから才能を発揮するのか、どちらかなのだろうと思う。
しかし、どんな才能の種も、一時地面に蒔かれた土中の暗黒の中に閉じこめられなくては芽が出ない事を思うべきだ。
他人を羨む必要はない、自分の持ち味を出せればそれでいい、そこからいろいろな芽が出て、人々との関りの中でいろいろなチャンスがあたえられる。
本当に自分を楽しんで生きている人は、他人が見てもおもしろいはずだから。
棟梁との出会い
修学旅行で初めて見た京都や奈良は、頭や心のやわらかい少年時代の私にとって夢のようなあこがれになった。
仏像や、寺々の屋根のやわらかい線、そのたたずまいはなぜかふるさとに帰って来たようななつかしい感じを受けた。
それはどこからくる思いだったのか。
あれから三十年、私は建築の道を歩んでいる。そして運命のように、京都や奈良の茶席や数奇屋に学んだ。その後この道を確信したのは、薬師寺西塔を再建した西岡常一棟梁との出会いだった。
塔組をいかに末永く、一千年という歳月に耐えさせるか、木の心を知り、そのいのちを自分のいのちとして、ヒノキの部材に補強の為のいかなる近代的工法も拒否して再建にのぞんだ姿、その思いを一冊の本で知り感動して会いに行ったのだった。
秋も深まった薬師寺の境内、初めて西岡氏にお会いした時の厳しく、そして温かい言葉がきのうのことのように心にひびいてくる。
あなたが今造っているものが五十年たつとその町の文化になる、そういうものを造らなければいけない、本物の素材をうまく生かせば美しいものは造れる。美しいものはかならず残ります。あなたは設計をやっているというが、図面だけで物を造るのではなく、職人さんと一緒になって、建築にいのちをふきこまなければいけない。
そういう責任感をもって建築をやらなければならない・・・と。
頑張る人
昨年の暮れ、何人かの教え子から転職の相談を受けた。
バブル後、就職率半分という時期に、どこへでも入れればいいという思いで就職した若者達である。
先の見える単純労働に嫌気がさしたと言うのだが、やっと自分とは何か、自分自身を見つめることができる年齢になったんだと励ました。
物質的な豊かさがあたりまえに育った若者たちは精神的な訓練を受けないまま、何に頑張ればいいのか、生きる目標を見つけられないでいる。
大人達だってそうだろうと言ってしまえばそれまでだが、それにしても『頑張らない新しいタイプの日本人が増えることによって働き過ぎや、過度の競争の緩和が期待できるのではないか。頑張らない君が日本を変える』という正月の某新聞の社説にはおどろいた。マスコミや報道人の薄っぺらい世界感にはあきれてしまうとしか言いようがない。
頑張らなかったら夢はつかめないんだ。
夢とは自分自身の人生をつかむことなんだ。
私もそうだったが、二十五歳を過ぎてはじめて人生一歳、三十歳ぐらいになってようやく自分の一生の仕事を見つけるぐらいの気持ちで勉強し、ものごとを見るといいよ。
頑張っている人達の話を聞いて、自分の可能性を信じるんだ。
きっとそういう人材をさがしている人達に出会えるはずだから。
ぶらさがっているだけの社員を必要としない社会にこれからなっていくんだから・・・
年賀状はそんな思いの応援歌になっていた。
母の桜
新しいランドセルを背負い、下を向くと目の前にかぶさってしまうほど大きな帽子を気にしながら渡し船に乗った。そのころ私の家の下に空知川が流れていて堤防から渡し舟が出ていたのだった。
四月というのに山間の小学校にはまだ雪が残っていて、新調したゴムの短靴はべショべショになった。やさしそうな先生が一人一人写真を撮ってくれたが、それが貧しかった子供の頃の唯一の私の記念写真となった。
さいた、さいた、さくらがさいた。みんなで声を張り上げて読んだが、私は恥ずかしさで一言も声が出なかった。しかしみょうに教科書の中の羽織を着た母親と、半ズボンの男の子が満開のさくらの木の下を手をつないで歩いている様がいつまでも頭からはなれなかった。
私の母は桜の木がすきだった。何本も小さな木を育てていたが、特に堤防のそばにあった山桜の老木を大切にしていた。春になると、みんな落ち着いていられないほど、ひたすらさくらの花を待ちわびていた。そして期待どおりの咲きっぷりを見せてくれた。
六メートルはあろうか、その老木の中間ほどに私は自分専用の腰掛け所を作った。
くる日もくる日もそこに登っては空知川のキラキラ流れていく先に、別の世界があって、自分を呼んでいると、空想の世界を作りあげていた。夏には甘いサクラの実がなって、それを食べながら昼寝をした。
十八歳の四月、札幌に出る日、母といっしょに桜の木にも別れを告げた。
人に迷惑をかけるな、涙で贈ってくれた注意の言葉、汽車が出るまで、しっかり握って離さなかった手のあたたかみ・・・・・。
言葉では言いあらわせないぐらい私の将来を念じてくれていたんだと思う。その母の祈りが私の心に脈々と生き続けて、これまで仕事を進めてこられたのだろう。
そんな母も去年、父の元へ逝った。
春になると、さいた、さいたの桜の花のイメージとともに歯をくいしばって生きていた母の姿を思い浮かべ、私の心の原形質を呼びおこしてくれる節目の月を迎えるのである。
右脳と左脳
年のせいとは言いたくないが、もの覚えが恐ろしいほど悪くなった。
たった今聞いた人の名前もスゥーッと頭から消えていくのである。
もともと記憶力の良い方ではなかったから気にとめずにいたのだが、先日ごく親しい人の名前を間違って呼んでしまい気まずい思いをしてしまった。
それからというもの、これではいけないと記憶力を高める本とか、頭が良くなる本とかを性懲りもなく買いこんできた。
それで気がついたのだが、人の頭の中には二人の自分がいて、右脳が先に働き、次に左脳が整理する。二つの脳は全く別の思考回路になっていて、右脳はイメージで考え、左脳は言葉を通じて記憶するのだそうだ。
ところで日本人は明治以来、左脳ばかりを酷使する教育方法が行なわれてきたため右脳の創造力を妨げ、前例にとらわれ固定観念で頭脳の働きを縛ってしまっているというのだ。
どうりで変化が必要な時代に口では変化変化と言いながら、心構えができていないのはそのせいか。
右脳は感覚や創造力を司り、人生経験が多いほど発揮できるというのだから、これからは記憶力はさておいて、思いつきの第六感で勝負しようとえらく納得したのである。
ハウスドクター
ある建築雑誌に、ハウスドクター診察室という家の悩み相談コーナーを担当して15年がすぎた。
連載なので、仕事の合い間に悩みの手紙をいただいた家に出かけて行って、問題点や原因を調べ治療カルテを書く、いわば家の病気を治すお医者さん役をやっているのだが、これがなかなか骨がおれる。
とんでもない無責任な業者がいるかと思うと、情報過多なアレルギー症状の建主もいる。住宅展示場をすべて廻り、営業マン攻勢ですっかりつかれてしまい、いざ家が完成するころには不満とあきらめムードでノイローゼに近い状態という話を聞かされて気の毒に思う。
家づくりは、ほんとうは人生のうちでもっとも大きな楽しい遊びをすることであると思うのに、大半の人は、その遊びを放棄してしまい、車でも買うような気持ちでフル装備付きのインスタントすまいを買ってしまう。
何とか工法というものがたくさんあって、私だってなにがなんだかわからないが、一つ言えることは、くらし方や生き方に芯棒があって、それを大切にしている人なら、自分だけの空間や審美眼を信じて、一緒に真剣に遊んでくれる設計家か、業者を捜すことをはじめてみてはいかがだろうか。
自然体
みぞれが朝から降りつづいていて、それがシャーベットのようにアスファルトの上を覆っている。人に出会うことが珍しいくらい静かな嵯峨野の一本道、まだ日が高い時間なのに景色が煙ってしんとしている。
雪の白いすじが杉林の森の中に吸い込まれていて、絵でも写真でもそれをつたえるのはむずかしいだろう。
もう十回はこの道を通ったろうか。息をきりながら坂道を登って行くと、今しがた誰かが掃除して帰ったかと思うほどきれいに掃き清められた山寺についた。
境内にはいつものおじぞうさまがいる。
静かに立つ姿、やわらかい表情、前に立ってしばらくその顔を眺めていると、にこりと私にほほえみかけてきた。
自然体で生きたいと常に思う。
松下幸之助は商売の極意はと聞かれ、雨が降ったら傘をさすといい、茶道の秘伝はと聞かれた利休は、夏は涼しきように、冬はあたたかにと答えたというが、あたりまえのことをあたりまえにする難しさ、感動するこころが足りなければその本質はとらえることはできないのだと思う。
感じるその心はロボット化し、合理化された教育や環境では育たない。いつしか、このままでは日本人が本来持っている文化や美意識に対するすべての感覚をさびさせていくのではあるまいか。
安雲野の石像
楽しそうな小鳥たちのさえずり、草の匂い、ふと目を開けると、そこには想いでそのままの情景があった。
「なの花ばたけに、いり日うすれ・・・・・・」、いつか口ずさんでいる自分に気がついた。
遠いあの日に聴いて歌った、なつかしい歌、五月の安曇野はそんな心象風景を映し出していた。
枝々から吹き出した新緑が、野の草が、そして田園を彩るもえぎ色が、光にきらきらと反射し、北アルプスから吹き渡る、澄んだ空気で、いっそう輝いて見える。
そんな田園風景の中に、点々と道祖神が、たたずんでいた。災難を除け、良縁と子宝にめぐまれ、家内安全で健康であります様にと、男女双体のほほえましい石像達。
村の子供達は、どうぞ美人になります様にと、道祖神に化粧をして拝むのである。
大地のぬくもりと、素朴な温かい心を持った人々、そしてその風景の中に、自然もまた、人間と同様に自らが成長し、さらに美しくなるために、いろいろな試練を耐えて、創り上げていかなければならないという、先人たちの逞しい思いを感じた。
ある風景を見たときに感じる不思議な、なつかしさは、自らの祖先の魂が、自分本来の心に立ち戻る歓びなのかも知れない。
京都の秋
一年中で一番忙しい時期なので秋の京都だけはいままで見たことがなかったが、 幸い名古屋での仕事が決まり、合間をぬって一日だけ足をむけた。
新幹線から見える途中の山々は、まだうっすらと色付きはじめたくらいで、 北海道の雄大な紅葉ほどでないと、内心密かに思いながら眺めていた。
しかし京都に近づくにつれ、その景色が変わりはじめた。
列車が駅に滑り込むと、一目散にタクシー乗り場へ走った。
山が燃えていた。
東山に連なる一面が夕焼色に染まり、西に傾いた陽が雲の切れ目から レーザー光線のように射してくると、木々は生き返ったように一層その赤味を 増した。
ああ これが昔の人が想像した浄土の世界か。
私は思わず南無と手を合わさずにはいられなかった。
木々は散りゆく運命を知り、最後のエネルギーをふりしぼって燃えあがっている。
その不思議な自然の波動を体全体に感じながらその場から立ち去ることができなかった。
備前焼の壺1
朝早くまた同じ夢を見た。
数ヶ月前、備前焼の古い登り窯を見にいった時、口が大きく潰れた大壺が草むらに埋まっているのを見つけたのだった。
その大壷が何度も同じ夢を見せるのだ、話かけてくる様な気がする。
東の空が明るくなるのを待ってとりつかれた様に大阪へ飛んだ。
そして新幹線で岡山へ、そこから備前焼の里伊部は更に車で一時間はかかる。
岡山駅からレンタカーを借りて夢中で走った。
日帰りで戻ってこれるだろうか、無鉄砲な自分を責めながら、時間との戦いがはじまった、途中から降りだした雨はいっそう気持を重くしていった・・・。
備前焼は不思議な焼き物だ、どんどん虜になって深みにはまる。
伊部へは窯出しの折りに何度か足を運んでいた。
窯元の煙突が霧にかすんで見えはじめた、雨は一層強くなり登り窯へつづく山道は車で登ることができなくなった。
雑草と雨水に足を取られながら、ずぶ濡れになって大壺を捜した、この辺りにあったはずなのだが、季節が移って緑が繁り、見えるものがすこし変わっているのだ。
時が数時間に感じた。恋しい人に会いたい、そんな思いだった。
胸が張り裂けそうに焦っていた。
誰かに見つけられて持っていかれたのだろうか・・・。
備前焼の壺2
あった。
思っていた所から百メートルも離れた草むらの中に口が大きく 潰れた 大壷がころがっていた。
何度も夢を見せた備前の大壷、涙が出るほどうれしかった。
つれていってやろう。雨でどろどろになりながら口の中につまった土や枯草をだしてやった。
その時、壺の中に、もうひとまわり、小さい壺が、入っているのに気がついて、腰がぬけるほどおどろいた。
壺が子供をみごもっている。口が潰れて出られないまま、何年も忘れられ、雑草におおわれてしまったのだろう。
生きているような感情におそわれた。
岡山から宅配便で送ればいいと、気楽に考えてレンタカーを走らせた。
午後三時、札幌行に間に合うだろうか。
岡山に向かう途中、宅配便のカンバンを見つけては札幌へ送ってもらうようにたのんだ。
しかし割れ物ということで、どこも引き受けてくれなかった。
梱包する時間もない。絶望感が走った。ここまで来たのに・・・。
担いで帰るしかない。思いなおして、ビニールひもをガソリンスタンドで手に入れた。
グルグルゆわえて肩にかついだが、十歩も歩くことができないほど重い。
駅の階段は四つんばいになって、ずって上がった。
しかしだれひとり、手を貸してくれる人はいなかった。
四時三十分、ドブネズミのように汚れた私と、大壷を、新幹線の乗客たちは避けるようにしてとり囲んでいた。
腹がへっていて、ポケットの小銭で買えるノリ弁当を買った。
なぜか涙があふれてきて、とまらなかった。
十年前の春のころ、そのときはまだ、それからおこる、いろいろな出会いを大壷が見せてくれることを知らないでいた。
信じる者
先日ある人から独立したいという相談をうけた。
設計の仕事は、紙とエンピツと、頭ひとつで独立できるから、ある程度力を つけると独立を考えてしまう職業なのだ。
簡単に独立できるから、失敗するのも多いのだけれど、しかしあれこれ 考えて、人生の転機を感じたら、一種の思い込みのまま勢いにのって 一気に やらなければ、できるものではない。
だからといって早すぎると青虫のまま脱皮できないで終わってしまうし、 ぐづぐづ していたら蝶になる可能性を摘んでしまう。
自分を生かしてくれる会社がそうあるものではないから。
独立したいという人に、 やめとけとも言えない、なかなかアドバイスが むずかしい ものだ。
自分もそうだったが、会社の名前とか、地位を失ったとき、その人の真価が 試されるわけで、それが人間性であったりする。
けっして知識や情報だけでは仕事などつづけられるものでないことに 気づく のである。
土を耕して種をまき、水をやる、結果が出るまで時間がかかるが、それができる か。
あとは信じ合える人と出会い、その人達のために仕事をすること。
「信じる者」と書いて儲かると読むではないか、それが世の中だと思う。
ピグマリオン効果
ピグマリオン効果というものがあるそうだ。
伝説上の話から、むかしピグマリオンというキプロス王がいて、象牙で作った少女の像に恋をしたが、ついには女神によって命を与えられ、王はその少女と結婚したという故事にならって、心理学では相手にそうあってほしい、そうなってほしいと願うことが叶えられることを言うのだと聞いた。
そういえば、物心ついたころから「人様に迷惑をかける様な人間になるな」が口癖だった母の言葉が、何歳になっても頭から離れないのはピグマリオン効果のせいか。
私など欲張りだから、学校や職場の若い人達に、こんな人間になってほしいと願う前に、アイツはこれができない、あれができないととつい愚痴ってしまうからいけない。
できないことを探したのでは人間浮かばれないだろう。それより、できることを探す方が、人が生かされると言うものだろうに。
新人育成の場で、上司が一緒にできることを探しながら、こんな人間になってほしいと願ってくれたら、勇気が湧いて、どんなにそのために叱られたとしても意欲をなくすことなどないと思うが。
愛情の上に立ったピグマリオン効果で、難しい教育問題も、案外楽に解決できるかも知れないと思ったりする。
室生寺
深い渓谷が続く室生の里。女人禁制の高野山に対して女性に門を開いたことから女人高野と呼ばれた室生寺は、煙るような山間の美しい自然の中に溶け込んでいた。
草木の香りと室生川の清流につつまれ、ひんやりとした境内の石段を登って行くと、そこに金堂が見える。
写真家の偉人・土門拳が四十年間にわたって撮りつづけ脳出血で倒れてなお、半身不随の体をおして追いつづけた雪の室生寺。
私がはじめて室生寺と出会ったのはその一枚の写真だった。
よくもこの奥深い山里にこれだけの大伽藍を造ったものだ。
私は数えきれないほど多くの伽藍や塔を見てきたが、これほど強い緊張感と感動をおぼえたのははじめてだった。
檜皮葺の軒の深い屋根、その静かで誇張りがないゆるやかな曲線、その美しいデザインは現代のそれをはるかに越える精神性を感じる。
私は心のふるさとに帰るように京都や奈良へ足をはこぶ、しかしそれは単なるノスタルジーからくる思いではなく、日本の伝統やデザインというものに対して、自分自身はっきりした定見をもってかからなければならないと考えて炒るからで、それが混然とした現代に対する私なりの方法論なのである。
人間の価値
やさしさの時代、だそうである。
人にやさしく、環境にやさしく、地球にやさしくとやさしさの大安売りという感がある。
やさしさは女性の専売特許であった。特に母の愛はその代表であろう。
私は姉五人と母と祖母に育てられた。
物心ついたころからまわりは女物のにおいであふれ、遊びも、言葉も、趣向までも影響をうけた。
はじめて札幌に出た時、二番目の姉は「女はみんな狼だから、気をつけろ」という手紙をよこしたほどだった。
それほど女性達に守られて育った私は、女性のやさしさの裏にある、ほんとうの強さを理解できた。
自分が無く気の弱さから、いいかげんさをやさしさと勘違いしてしまっている社会。
子供達のいじめの問題や憂うつな事件がつづく。
けっきょく汚職や耐震偽装などなど、自分のことしか考えない無責任な社会の大人達の写しなのだ。
人間の価値が、一流大学に入って一流会社や官庁の幹部になるとか、地位が高いとかいうことで計られるものではなく、生きていることに感謝する心や、他を思いやる心が一番大切なのであって、
ほんとうのやさしさとは人間の価値を計る基準の中で、もっとも位の高いものなのだと思う。
小樽
久しぶりに小樽に出かけた。
観光客であふれるその変貌ぶりには驚いたが、いつでもなにかを発見できるたのしみのある町である。
運河通りから一本山の方に入ると、色内通りに出る。石倉やレンガ造りの建物が、明治、大正、昭和の生きた証しとして、小樽らしい風景をつくり出している。
石倉の窓からこぼれる大正ロマンの電灯や、空間を利用した懐かしい店を一つ一つのぞいていると時間のたつのも忘れてしまった。
没個性の町づくりが進む北海道で、開基百何年という記念館ばかりが目立つ町に出かけて街づくりのお話をする機会が増えた。
経済性だけで進められる総合開発とやらの中に、五十年、百年後の町の歴史文化をどう残し、造り出していくかという部分が忘れられている様に見える。
ほんとうに一番大切なことは、歴史を町づくりの糧にしていかなければならないということを、小樽は教えている様に思う。
「あなたは北海道の雪を知っているだろうか
それは硝子屑のようにいたくて
細かくて、サラサラと乾いている。
雪道は足の下でギュンギュン
もののわれるような音をたてる
そして雪は塩酸に似て
それよりはもっと不思議な匂いをおくる・・・」
通りで見つけた多喜二の詩は、そんな町だからこそ似合うのであろう。
不易流行(ふえきりゅうこう)
森の朝。
昇る太陽が大地を照らすにつれ、木々の枝葉はそよぎ、鳥や虫たちがせわしげに活動をはじめます。
大きく俯瞰すれば森の営み自体は何十年と変わらずに見えますが、森の細部は小さな生命たちによって絶えず変化を続けています。
木々たちは競うように葉を一杯に広げ、光を求め、時にはその枝を自ら落とします。
彼らの生の営みは、めまぐるしい変化の渦の中で、輝きを増していきます。
森は変化することによって進化し、生まれ変わることによってその美しさを保っているのです。
これを俳諧の世界では「不易流行(ふえきりゅうこう)」と言いました。
芸術やものづくりにおいても古くからこの志向が求められてきました。
本物の伝統とは、単なる様式や意匠の伝承の事ではなく、
長い歳月をかけて新しさを磨き、変化を重ね、時代の流れの中で再生され残されてきたものなのです。
私たちの家づくりにおいても様式や伝統の基本の中に、更にモダンの精神を志向し積極的に変化させ、次の伝統に繋がる家づくりに挑戦しなければ建築家として意味が無いと思います。
この時代に生きた証としての使命感というか、覚悟というか、そんなうぬぼれに似た自己鍛錬がなければ建築などやるべきでないと、この歳になって思うようになりました。
大げさかもしれませんが、この時代の中で家を創るということは、大自然の恩恵を受け、それを生かし、人を幸せにし、次に繋ぐ文化を創る。
建築をつくることは未来をつくること、そのものだと思うのです。